大川 耀
New Zealandと聞いて、たくさんの人が最初にイメージするのがラグビーだと思います。New Zealandはラグビー大国であり、町のいたるところにラグビーグランドがあり、幼い子供から年老いた大人までラグビーをしています。そんなNew Zealandのラグビーチームに、自分は幸運にも参加するチャンスがありました。自分は高校三年間ラグビーをしていてラグビー=根性、気合という固定概念があり、あんまりラグビーに対していい印象がなかったのですが、New Zealand styleのラグビーに参加して自分の考え方が変わりました。
Hamilton Waikato Universityラグビー部のBチームに参加させてもらいました。初めて練習に参加する前の夜から、かなり緊張してよく眠れなかったですが、実際練習場についたら、チームメイトが初対面とは思えないぐらいフレンドリーで、練習の雰囲気になじむのは本当に簡単でした。驚いたのは体格の違いです、自分と比べると子供と大人ぐらい違います。またチームメイトの何人かは、日本で高校時代にラグビーの試合をしたことがあり、日本語が少し話せるなどという選手などもいました。
コーチは大学の先生ではなく、Subwayというサンドウィッチ屋で働いている人で、とても気さくで優しい方でした。初めて練習に行った日なのに、いきなりアドバイスなどをくれ、自分が英語で理解できるまで説明してくれるぐらいいい人でした。
練習の雰囲気は日本のラグビー部の練習とは全く違い、みんなが笑顔でコミュ二ケーションをとっており、とても楽しそうにラグビーをしていたので、本当に驚きでした。また日本の高校ラグビーはコンタクトプレーをするときは、ヘッドキャップを付けることが義務付けられているのに対して、New Zealandラグビーはそれがありませんでした。またすべてのグランドは天然の芝生が生い茂っていたので、こけても全然痛くなかったです。日本のグランドは土なのに、New Zealandは芝生だから気持ちよくラグビーの練習ができ、New Zealandは世界一のラグビーチームだと確信しました。
New Zealand政府はラグビー、フィールドホッケーなどにすごく力を入れていて、政府が作った強化選手のチームが地域ごとにあり、試合をして活躍した選手をプロがスカウトしてチームに入れるという日本と同じようなシステムがありました。自分の参加していたチームにも怪我で地区代表を離脱している選手などもいました。 チームメイトのほとんどがアルバイトをしていて、アルバイト先がナイトクラブのセキュリティーでした。夜にナイトクラブに行ったときは、IDのチェックなしで中に入れてくれたりしました。
New Zealandのラグビーチームに参加して一番感じたことは、チームメイト同士がライバル意識を持ちながら、すごく仲が良くて、高校時代にこのように楽しみながらラグビーの試合をすればよかったと感じました。
(国際学部学生 2011年入学)
高城 黎也
はじめに
私は、2012年8月11日から12月9日までの四ヶ月間、ハワイのマウイ島に留学に行ってきました。海外に留学目的で行くのも初めてでハワイに行くのも初めてだったので、目に映るものすべてが新鮮でいろんな経験をし、共に様々な「初めて」に出会えた。
ハワイでの生活
Ⅰ.寮
私は、ハワイでは寮生活だったので掃除、洗濯、料理をすべて自分たちでやっていた。
寮には同じ大学の日本人の長期留学3人と短期留学7人で、男女部屋別の生活だった。部屋の形はH型で真ん中がキッチンで両サイドに部屋があって一部屋に二つのベッドとタンスがあり、トイレ,シャワー別でした。海外では浴槽に浸かる習慣がないのは、驚きだった。4階にはランドリーがあり一回1.5ドルで乾燥機も1.5ドル、計一回3ドルなので一週間分溜めて洗っていた。
寮にはWIFIが敷かれていたので、パソコン、スマートフォンでインターネットが使用可能だ。寮の裏にはバスケットリングがあった。
Ⅱ.学校
学校は、ハワイ大学マウイカレッジに付属する語学学校MLI(Maui Language Institute)に通っていました。 そこには日本をはじめ、台湾、中国、韓国、タヒチ、アイスランド、スペイン、イタリア、ベトナムなど様々な国の人たちが集まっていた。
授業内容は、もちろん全部英語で科目は6教科(Reading, Speaking and listeningなど)がある。私が一番好きだったのはFilm Studyという映画を見る授業だった。
各科目、3つのクラス(Beginner, Intermediate, Advanced)に別れて行われていた。昼休みは20分しかなく学生食堂で並んでいると終わってしまうほど短かった。しかしランチを食べながら授業を受けてよかったので救われた。ここで気が付いたのはアメリカの学校では授業中に食事をしてもいいが、遅刻にはすごくシビアでとても厳しかった。
学校は週4日。金、土、日は休みで、月に一回金曜日にExcursionがあり、地元の高校生とカヤックをしたり、ホテルにある芸術作品を見学しに行ったりした。
学校を通して気が付いたのは、国ごとの「国民性」が授業に現れていた、例えば、日本人は発言や質問が少なく発音等は苦手だがGrammarなど文法は出来て、ヨーロッパ出身者は発言や質問が多いなどのところだ。
Ⅲ、食事
一番困ったことは、やはり食事だった。ハワイの物価は高くはないが、海鮮類や日本の商品は高かった。最初の月は近くのモールのフードコートでランチプレートや、マクドナルドがすごく安かったのでそこですましていたが、ランチプレートもすごいボリュームで肉が分厚く、野菜は基本食べなかったので、不摂生のせいでお腹を下してしまった。だから、ちゃんと自分で自炊するようになる。日本に居る時料理はほとんどしたことがなかったので、はじめはパソコンの料理サイトで調べて簡単なパスタを作っていていた。買い物も寮の隣にあるファーマーズマーケットという火、水、金におこなわれる農家の人が営む、野菜直売の市場に行った。そこは魚も安くエビ5匹で2ドルだったので重宝していた。
休日の過ごし方
留学での目標は「今までにしたことないこと」をおこなうだったので、最初にギターをはじめた。ルームメイトに教えてもらい練習していたが二週間でやめてしまった。サーフィンをきっかけに、スケートボードもはじめたが、最終的に続いたのは、バスケットボールとサーフィンだった。元々、日本に居るときから友達とバスケをしていたので寮の裏でシュート練習をしたり、大学の友達や地元の友達と遊んだりしていた。個人的にバスケでよかったのは、寮に住む地元の少年と二人で1on1 をしたことだ。そこで片言でもコミュニケーションをとれたことだ。
サーフィンは絶対はじめようと思っていたが、友達は誰もできなかったのでインターネットで調べて我流でやっていた。ボードはレンタルでして、バスで1時間のラハイナでしていた。そこは遠浅で、下は岩だらけなので、怪我が絶えなかった。背中に岩が刺さったり、ウニを踏んだりした。ビーチではサーフィンしている人はとてもフレンドリーで、軽い会話ができるいい場所だった。
まとめ
この留学は私の人生で大切な思い出になるに違いない。留学で、多くの人と出会い友達になった。ハワイアンだけでなく他の国もちろん日本人とも仲良くなった。その中で、価値観や考え方、言葉の違いにぶつかり自分なりに考え乗り越えたこの「経験」は一生ものだと思う。
寮生活では、親のありがたみ、苦労を実感でき、色々なことを学べてよかったです。異文化に触れることで知る自文化の良さ、悪さにも気付くこともできた。マウイを第二の故郷と呼べるほど、地元の人々や環境がよかった。すべてに感謝することを学んだ。
(国際学部学生 2011年入学)
村上 麻彩
*スケートボード社会
ニュージーランドでは、小学生ぐらいの子供から40代ぐらい大人まで色々な人がスケードボードを持っている。ニュージーランドは、スケートボードやキックボードといった物がとても盛んで、私は留学に行く前からとても楽しみにしていた。だから自分自身も、日本からペニーという小さいスケートボードを持って行った。
ニュージーランドは日本と違って何処でもスケートボードで滑っても何も言われない。中にはショッピングモールの中で堂々と滑っている人もいた。ニュージーランドのスケートボードは色々な種類があって小さい物から大きい物まで様々な種類のスケートボードがある。そのスケートボードをとても上手く滑っている人達もたくさんいた。
私は、日本からスケートボードを持って行っていたので、家から学校まで約1時間かけて、そのスケートボードで学校まで通っていた。ハミルトンのバスは15分おきに来るのだが、朝はなかなか来なくて学校に遅れたりするので、私はそれで通っていた。他の日本人の友達もスケートボードを持っていて、一緒に遊んだりもした。
街中をスケートボードで駆け抜けると、ニュージーランドの人達に、「そのスケートボードを売ってくれ」など言われたりもする。ニュージーランドの子供達は日本の子供達と違って気軽に話しかけてきてくれたり、すぐに友達になれたりする。
*ニュージーランドの食文化
ニュージーランドの食文化は、日本と違ってとても質素だった。日本はとても食に恵まれていて、日本食がどれだけ美味しいが実感した。
私のホストファミリーのお母さんは、メキシコ出身だったので、主にメキシコ料理が多かった。毎日のようにじゃがいもや、肉も食べていた。朝ご飯は、トーストやヨーグルトやシリアルといったあまり日本とは変わらない食事だったが、お昼のランチボックスがフルーツは切らずにそのまま入れたり、電子レンジで暖める冷凍食品だったり、お昼ご飯が一番日本と違うなと思った。だから最初の頃は慣れずに苦労した。日本食が恋しくなったり、親のご飯が食べたいなと思ったりもした。
家族でたまにBBQなどをしたりしたのだが、ニュージーランドのBBQは、肉とソーセージしかなかった。それと、みんなで楽しく焼いたりするのではなくて、誰か一人が一気に焼いて、それをパンなどに挟んで食べるという形のBBQだったのが、私はびっくりした。野菜があまりなくて、野菜が食べたくなった事もあった。
ニュージーランドはピザがとても安くて日本のピザ屋であるLサイズが、ニュージーランドでは350円(5NZD)で買える。味もなかなか美味しかった。お寿司もとても有名で、どこのショッピングモールにも寿司屋があるぐらいだった。しかし、日本と違うのは、ニュージーランドのお寿司はシャリの上に日本では絶対乗せないような物を乗せる。例えば、照り焼きチキンやアボガドやフライなど、生魚をあまり見かけないほどだった。だから私はあまりニュージーランドのお寿司は好きではなかった。
マクドナルドやケンタッキーなども多数あって、日本ではあまり見かけないバーガーキングといったファストフード店がたくさんあった。最初の頃は週2ぐらいで通っていたぐらいだった。メニューは日本と違っていたが味はほとんど日本と変わらなかった。
*ニュージーランドと日本
私がニュージーランドと日本で一番違うなと思った事は、ニュージーランドの人々は家族をとても大切にしていることだ。休みの日には必ずと言っていいほど家族で何処かに出かけたり、仕事が終われば真っ直ぐ家に帰ってきていた。
今日本に帰ってきてから、家族の事を本当に大切にしたいと思った。4ヶ月しか離れて生活しなかったけど、それでもやっぱり離れている期間は家族の事を常に考えていたし、今も一緒に暮らしていて、一番落ち着く場所だと思った。
*最後に
私はニュージーランドに留学して、たった4ヶ月だったけど、たくさんの経験をつみあげた。将来の事も、家族の事もじっくり考えたし、自分自身も少し成長できたと思う。これからまだ2年間、学生生活が残っているけれど、卒業する頃に、この4ヶ月の留学は学生生活で一番良い経験をしたんじゃないかなと思えるだろう。
(国際学部学生 2011年入学)
桜木 侑希
1.はじめに
私は2012年8月18日から12月2までニュージーランドに長期留学してきた。私は海外に行くことと留学することは2回目だったので不安も心配もあまりなかった。このレポートではニュージーランドで体験したカルチャーショック、ホームステイ、そして授業について報告する。
2.カルチャーショック
私は2012年2月にオーストラリアに1ヶ月間短期研修に行った。それが私の海外初体験だったので、体験したカルチャーショックはたくさんあったが今回はあまり感じなかった。でも1つだけ感じたことがあった。
ニュージーランドは季節が日本とは逆で、8月は冬にも関わらず、町へ出かけると子どもも大人も裸足で歩いている人が見られた。道路だけではなくマクドナルドやスーパーマーケットでも、気にせずに子どもは裸足で走り回っていた。足の裏を見れば、もちろん汚く真っ黒であった。それに関して親は怒る訳でもなく、日常の事のようにしていた。日本人からしたら、これは驚異的なことだ。雨の日も靴を片手に平然とした顔で歩いている子どもを見た。靴すら持っていない子もいた。
私はとても気になり、ホームステイ先の家族に聞いてみた。しかし答えは分からなかった。私の周りでは、靴を履いていない人はいなかったので直接聞くことは出来なかったので、調べることにした。そしたらびっくりしたというより、唖然とした答えが出てきた。ただ靴を履くことが嫌いで履いていないだけである。10月になるとだいぶ気候も暖かくなるにつれ裸足で歩く人が増え、私も気づけば、靴を履かなくても、歩けることができるようになっていた。学校にいる時や、ヒールで足が痛くて裸足で歩くこともあった。
3.ホームステイ
私のホームステイファミリーはイングランド出身で父、母、娘の3人だった。長男と長女は結婚していて家を出ている。部屋は9部屋あって、地下まであった。庭もあり、庭にはバーベキュウセットもあった。父の仕事はエンジニアをしていて、母は銀行で勤めていて、共働きである。母は毎日5時に起き、6時には仕事に向かうので、朝会うことはなかった。父は7時半に家を出るので、たまに朝食を作ってくれる。基本的に、朝ごはんと昼食は自分で作っていて、冷蔵庫や倉庫から何でも好きな食べ物を持って行ってよかった。
父の性格は、優しく、とても親切で、よくジョークを言って私を笑わしてくれる。よく母に怒られていて子供みたいな一面もある。私の行きたいところは全部連れて行ってくれて、私の友達も家に招待して歓迎してくれた。私の誕生日と父の誕生日が偶然にも一緒で、2泊3日の旅行に連れて行ってくれた。
母は優しく、毎日ご飯を作ってくれ、洗濯もしてくれる。ご飯は基本的に、イングリシュフードで、セルフサービス式である。ご飯の後には必ずと言ってデザートが出てくる。洗濯は母が忙しいので週に一回だったから、服が回らなく着る服が足りないことがしょっちゅうあった。土日に天気が悪いと洗濯をしてくれなかった。乾燥機もあったが、半乾きの時が多かった。娘はBody shopで毎日働いていてほぼ家には帰ってこなかったので、私を本当の娘のように接してくれた。
夜は毎日のようにDVDを3人で見ていた。休日には父の兄弟の家に行ってpartyをしたり、父母の友達と2泊3日の旅行に連れていってくれたり、交流する機会をたくさん作ってくれて、紹介もしてくれてすごく充実した日々が過ごすことができた。私の家族の家には今までに20人くらいホームステイをした人たちがおり、家族はとても慣れていた。ニュージーランドの携帯を貸してくれたり、道が分からなかったらわざわざ父が、車を出して教えてくれたりとても親切だった。とてもよくしてもらって本当の家族みたいだったので、帰る3日前から涙が止まらなかった。
4.授業
ニュージーランドに着いて3日目にクラスわけのテストがあり、このテストでレベル1から8までにわけられる。このテストはReading、Listening、Speaking の3つだった。私はレベル3になりクラスメイトは日本人5人、中国人7人、サウジアラビア人1の13人だった。授業は月曜日から木曜日までは9時に始まり3時に終わる。金曜日は12時までだった。午前中と午後で先生がかわり、午前の先生は日本に12年間住んでいたことがあり、日本語がとても上手だった。最初はクラスメイトとは仲良くなかったけど、日が経つにつれてだいぶ仲良くなった。今ではFacebookなどで連絡をとっている。
授業内容は、特に単語が難しかった。話す機会が多く、前に出て話すことも多かった。3ヶ月間はこのクラスだったが、残り1ヶ月はクラスが変わり日本人が多くなった。クラスでは日本語が飛び交っていた。学校最終日には学院メンバー9人で私生活の写真を載せたプレゼンテーションとバンドの出し物をした。
5.さいごに
人間関係で悩むこと、辛いこともたくさんあったが、それ以上に楽しかったこと、感動したことがたくさんあったので最終的には留学に行けてよかったと思う。約4ヶ月、とてもいい思い出になった。精神的に成長することができたし、物事を見る視野が広がった。
(国際学部学生 2011年入学)
津崎乃絵
私は、韓国・大田(テジョン)というところに行っていました。期間は、4ヶ月弱でした。大田は、韓国で5番目に大きい大都市です。そして、大田から地方に行くときの交通面が非常に便利ですが、大田内での交通面は不便でした。
次に、私が留学していた大学についてです。大学は、培材(ペジェ)大學という大学です。校内には、銀行、郵便局、コンビニ、カフェ、眼鏡屋、文房具屋、花屋があります。
培材大學は、とても大きな大学で、また、校内は坂道だらけで、移動するときは、とても大変でした。
そして、クラスは授業が始まる前に受けた語学力テストで、クラス分けをされました。私のクラスの人数は、17人でした。17人中16人が中国人で、私一人、日本人でした。先生は、各クラスに2人ずつでした。授業は、月曜日から金曜日で、9時から12時までの3時間でした。また、月1回程、留学生全員でキムチやワインを作りに行きました。また、韓国の昔の楽器を使った演奏会や遊園地にも行きました。しかし、行く前に、行きたいか、行きたくないかを多数決で決めて、行きたい人が多ければ行くし、行きたくない人が多ければ行きません。
最初の頃の授業は、中国人がずっと中国語で話すので何を言っているのか理解が出来ませんでしたが、少しずつ韓国語で話してくれるようになったので良かったです。
次は、留学中に生活していた寮生活についてです。部屋は、6人部屋か14人部屋があります。私は、6人部屋でした。ルームメートは、全員韓国人でした。そして、寮にはいくつかの規則がありました。月曜日から木曜日は夜の11時に点呼をとります。また、月曜日から日曜日までに外泊をする時は、外泊届を出します。しかし、火曜日は外泊禁止の日になっています。そして、2週間に1回、部屋の大掃除があります。あとは、料理をしてはいけません。この全ての規則を守らないとマイナスポイントになります。マイナス30ポイントになれば寮から追い出されます。
寮の地下には、コンビニやスポーツジム、学生食堂、コンピューター室、テレビルームがありました。
次は、毎日の様子についてです。平日は、12時に授業が終わるので、ルームメートと一緒に学生食堂で、お昼を食べるか、学校の近くにある韓国料理屋に行って食べていました。学生食堂では、200円から300円程で、韓国料理屋は、300円から800円程で、食べることが出来ました。そして、ご飯を食べ終えてから、バスに乗ってウネン洞あるいは、トゥンサン洞という場所によく行って、買い物やカフェ、カラオケやビリヤードなどをして、遊んでいました。夕食は、そこら辺にある韓国料理屋に行って食べていました。
大田は、遊ぶ場所が限られているため、クラスの友達や先生方に、よく会いました。先生に会うと、カフェに行って奢ってくれました。
雨や雪が降ったときは、寮にずっといました。主に、パソコンで韓国のテレビを見たり、ルームメートとゲームをしたり、家族とチャットをしたりしていました。そして、ご飯は出前を注文して食べていました。
次は、学校の周辺についてです。まず、学校の正門を出たら韓国料理屋さんが、たくさんあります。多くの学生が、住む町なので安くて量が多く、そして美味しい店が多いです。また、韓国料理屋だけではなく、カラオケやビリヤード、ゲームセンターがあります。
裏門を出れば、文房具屋や印刷屋、スーパーがあります。もちろん韓国料理屋もありますが、日本料理屋もありました。
最後は、観光についてです。土日は、大田に居ても、どこも観光する場所がないのと、寮生活をしている韓国の学生は、実家に帰るため基本暇です。なので、金曜日の授業が終わって日本の新幹線のような乗り物、KTXに乗ってソウルによく行っていました。また、ソウルに韓国の友達がいるので、ソウルで行きたかったところに連れて行ってもらいました。そして、家族がソウルに旅行で遊びに来たので、韓国の友達に教えてもらった観光場所に家族を連れて行きました。あと、大阪学院大学の仲の良い先輩もソウルに遊びに来たときがあったので、その時、会ってソウルを案内して、一緒に遊びました。
そして、私は前から済州島に行きたかったので、培材大學の韓国の友達と一緒に観光しに行きました。済州島では、車を借りて車で済州島を回りました。済州島に行く前に友達とインターネットでいろいろと調べて、行きたかった観光地に全部回りました。あと、済州島では有名なミカンや黒豚、刺身が日本より安くて食べることが出来ました。また、気温が大田より済州島の方がとても暖かくて、観光するのには、最適でした。
(国際学部学生 2011年入学)
橋本 栞名
私は、台湾の台中にある静宜大学に約4ヶ月留学した。同じアジアの国であり、親日の国とも言われている台湾であるが、実際に留学し、日々生活する中で、文化や、生活習慣など、さまざまな点で感じたことや、体験をこのレポートに報告する。
*学校生活
私は今まで留学=学生というイメージだったが、留学している人の年齢層はさまざまだった。同じ授業だった韓国人の男の子はまだ高校生くらいの年齢だったのだが、高校3年間分の勉強を自ら勉強し、高校卒業の認定をもらい私たちと同じ授業を受けていた。彼は、自分の国の教育制度があまり好きではなく、自ら勉強し、台湾に来たと言っていた。また、とても積極的で、知っている日本語を私に話してくれ、とても高校生の年齢ようには思えなかったし、また自分で考え、高卒認定を取得し、国外に出ようと思える行動力も本当に素晴らしいものだと思った。
また、50代程の夫婦や、働きながら勉強している人など、交換留学生とはまた少し違った人の中で共に勉強できたことは、自分にとって、とてもいい刺激になったし、人生観が大きく広がった
私は、特にクラス分けのテストを受けず、向こうの先生が出してきた教科書を少し読んだだけで、クラスが決まった。はじめは、慣れない環境で急にクラスに入れられ、授業もすべて中国語で行われ、正直着いていけないと思い、先生にクラスを変えてほしいと頼んだのだが、ちょっと頑張ってみてと言われ、せっかくここまで来て、少し上のクラスに入れてもらえたのだからやってみようと思い、必死で着いていくと、少しずつ先生の言っていることが理解できるようになり、教科書の内容も、普段会話の中で聞くような言葉も多く、とても充実したものだった。
*寮生活
学校が夏休みということで女子寮が閉まっていたため、はじめは男子寮に入った。寮は3人部屋だったが、初日ルームメートが帰ってこず、何も分からないままでとても不安だった。何とかカタコトの中国語で隣の部屋の人にトイレやシャワーの場所を教えてもらい、台湾ではトイレの使い方が少し日本とは違い、紙を流さず、今まで清潔だった日本のトイレと比べると、少しショックだった。だが、それもすぐに慣れた。次の日にはルームメートも帰ってきて、それからは、困ったことがあると助けてくれた。
夏休みが終わると、女子寮に移り、3人の台湾人の子がルームメートになった。お互いに言葉がうまく通じないこともたくさんあったが、紙に書いてくれたり、時には、授業の日本語を教えてあげたり、また、化粧道具を貸してあげたり、積極的に話しかけてきてくれ、とても居心地のよい部屋だった。
シャワーや洗濯機の使える時間が決まっていたのだが、階によって厳しいところや、多少時間が過ぎても、大丈夫なところや、さまざまだった。
*休日
毎週末になると、寮のほとんどの学生が実家に帰り、寮や学校がとても静かになる。私もせっかくなので、なるべく外に出るようにした。台北には2度行き、2度目のときは、大学から一人でバスを乗り継ぎ、チケットを買い、台北の台湾人の友達に連絡を取り、遊びに行くことができた。
台中では、信号を渡るとき、人ではなく、車やバイクが優先だったのだが、台北では日本と同じように人が優先で、日本ではほとんど当たり前のことだったが、とても感動した。
また、台湾人の友達の実家に連れて行ってもらい、台湾の一般的な家や、他人への対応などを肌で感じることができ、とても貴重な体験だった。
私のルームメートが観光学科だったため、実際のツアーのようにバスなど、観光地まで案内してくれ、お寺や、建物などもとても親切に説明してくれた。私もすべて中国語が理解できるわけではないので、わからないこともあったのですが、そんな時も、丁寧にわかりやすく教えてくれ、とても楽しい時間だった。
*食生活.お店
食事は、毎日外食だった。台湾では家庭でも食事をあまり作らないと言われているが、私が3回ほど友達の実家に行った時も、外食か、お店で買ってきたごはんだった。1回の食事代もすごく安く、量も多く美味しかった。台湾で有名な夜市も、学校の隣にあり、輪投げなど、小さなゲームができ、お祭りのようでとてもいい雰囲気だった。
また、私がほぼ毎日行っていた学食では、おじさんが話かけてくれたり、中国語の料理名を教えてくれたり、とにかく明るくて、毎日楽しみだった。
*まとめ
約4ヶ月という短い期間での留学だったが、多くの国のさまざまな年齢の人たちと関わり、言語以外での日本との違いを実際に肌で感じ、体験することで、今までの自分の考え方や、ものの見方、また、日本を客観的に見ることができて、本当に貴重な体験だった。これだけではなく、まだまだ書ききれないこともたくさんあるのだが、今回のこのような体験を忘れず、この先自分がどうしたいのか、先に繋がるように、自分に人生に生かせられると良いなと思う。
(国際学部 2010年入学)
上島 めぐみ
*私のニュージーランド生活。
私は2012年8月18日から12月2日までニュージーランドのハミルトンという場所に国際学部留学プログラムで滞在していた。私が海外に行くのはこれで三度目で、ホームステイは二度目の体験だ。この留学の目的の一つはホームステイで自分の英語が成長しているかを確認するためで、そして一番の目的は多文化を直に体験することだった。
*学校生活
私のホームステイ先から学校までは渋滞などがなければ15分以内で行けます。しかし渋滞にあってしまうと30分以上かかることもあった。
授業は朝9時から3時まで、午前と午後に別れていて、朝は文法やListeningを中心に、午後はWriting Speakingが中心だった。文法の授業では基礎の基礎から始めたのであまり困ることはなかったのだが、WritingとSpeakingは本当に困りまった。Speakingに関しては、本当に同じクラスの子なのかなと思うほど上手な学生もいて圧倒された。でも自分にはよい刺激になったと思う。
私が通っていたWaikato Pathways Collegeには日本人と中国人が全体の半分、(私が滞在していた時期)そしてサウジアラビア人、クウェート人、台湾人、韓国人、タイ人そしてたまにイタリア人やメキシコ人がいた。
ここの学生は、私のように学生で留学してきている人は少なく、大半の人は高校や大学を卒業してきていたり、このWaikato大学に入学するための勉強課程としてきている人が多く、私とは目的が全然違い、真剣さが違い驚いた。
私の勉強していたクラスにはクウェート人2人、サウジアラビア人1人、台湾人が1人、中国人が3人、そして日本人が8人いるクラスだった。
楽しくて、笑えるクラスだった。しかし授業中の態度や、国によって違う独特の癖に悩まされることもたくさんあった。そしてクラスメイトと仲良くなれば、クラスメイトの友達とも関われるようになり、そして、partyや遊びに行くときに誘ってもらえるようになり、頑張って英語で話しかけることや、話し続けることは大切だと知った。
*ホームステイ
学部留学でニュージーランドを選んだのは一つはホームステイができるからだ。
私が行くことになっていた家は、去年の先輩が滞在していたこともあり、安心していた。でもまさか別の家に行くことになるとは想像もしていなかった。一軒目の家はパパが中国人、ママがニュージーランド人で8歳と3歳の男の子とママのお腹の中には、11月に生まれてくる予定の赤ちゃんがいた。「普通こんな大変な時期に留学生を受け入れるかな」と思った。そして、家族や親戚が学校関係者でとてもわかりやすい英語で私に話してくれるのでとても過ごしやすかった。そしておばあちゃんは私のクラスの先生だった。
でも、衛生面や子供のことは悩まされることになった。衛生面は廊下におむつや食べ物が落ちていたり、トイレや、生ゴミのせいでハエがよく家のなかに飛んでいることが、悩みの種だった。私はいろいろあり、ホームステイの紙にも「清潔な家がよい」と書いたのだが、このようなことになってしまった。「魔の二、三歳児」が本当に大変なことを知った。ご飯のときは動物園のようだった。でも子供がいても良いと言ったのは自分なので、コーディネーターに相談することができなかった。しかしちょうど一ヶ月が経ったときに我慢ができなくなり、相談し一日でホームステイ先が変わることになった。でも揉めたわけではないので、家が移ったあとも三回くらい家に行くことができた。そして赤ちゃんも見ることができて良かった。
次の家は75歳のおばあちゃんが一人の家だった。元NurseのDorothyは料理もすごく上手で、掃除も洗濯も毎日してくれ、とてもよいホストマザーだった。前の家よりも話す時間が長くなった。しかし、少々頑固な面があり、困ったときもあった。でも近所のDorothyのお友達のおじいちゃんたちがよく助けてくれたことがたくさんあった。すこし誤解されたり、喧嘩したこともあったが、とてもよいホストマザーだったと思う。
*最後に
本当に色々なことがあって、悩むことも喧嘩することも泣くこともあった。でも笑ったり、楽しくてしょうがない日やドキドキすることもたくさんあった。
色々な国の人と関わりを持つことで、自分の悪い点や友達の良い点、国の価値観の違いを知ることができたと思う。そして自分が知っていたことが、実際では違ったこともあり、新しい発見ばかりだった。
例えが、宗教を真面目に守っている人がいれば、その反対に守っていない人も普通に見ることができ、授業では習えないことがたくさん留学では学べたと思う。英語は成長したということははっきりとはいうことはできない。でもすべての出来事が私自身を成長させてくれたとおもう。授業よりも外国人の友達とメールしたりして、わからないことを自分で調べたりすることが一番の勉強になったと思う。そして楽しく、まさに留学は一石二鳥なことばかりだった。ホームステイに関しても最初は変わることは嫌だったが、このような体験をできることはラッキーだなと思えれるようになった。他にも日本の良いとこも良くないことにも気づかされた(並んでいるのに横入りするとこ、基本せっかちである、譲らない、)一番良かったことは英語の勉強がもっと好きになったことだ。
この留学の思い出は大切な思い出である。たくさんの人に感謝の気持ちを伝えたいと思う。
(国際学部学生 2011年入学)
5月2日(木曜日)は、ゼミナール2Aの合同ゼミがおこなわれました。テーマは「就職について考える」でした。
三輪信哉先生から「今から考えてほしい、就職のこと」の講演がありました。教壇の前に置かれているのは、正社員とフリーターの生涯賃金の差を実感できるために、キャリアセンターが作ってくれたものです。フリーターの生涯賃金は軽く持ち上げられますが¨
またこの学年(現在2回生)からは、就職活動の開始が3回生の3月からになる予定です。そのことがもつ意味について、松本芳明先生から説明がありました。
合同ゼミ冒頭に、ボランティア団体"accord"の活動報告が入りました。東北の被災地と関西で、さまざまなボランティアをおこなっています。
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